みなさんこんにちは。
長い間活動もブログの更新もせず、
ここまで来てしまったことを心からお詫びいたします。
活動のことも個人的なことも、本当に余裕が無くなっていました。
みなさんの大切な気持ち、大切なお金を預かっているのに
本当に、申し訳ありません。
この文も実は年末に書いていたのに、最後まで書くことが出来ず、やらなきゃと思いながら忙しさに身を任せ、結局今日3月11日になってしまいました。
申し訳ありません。
集めたお金を返すと言う方法もあったかもしれませんが、なんとかそれだけでも被災地の役に立てたいと思い、去年の12月に現地に行ってそのお金の行き先を決め、渡してきました。みなさん本当にすいません。これからは身の丈にあった個人的な活動で日本に、日本人にエネルギーを送っていきたいと思います。
今でも自分に出来ることは、小さくても少しはあると思えてはいます。
しかし、みんなを代表して何か、とかは正直、今のところ出来ると言えません。
なので、本当に勝手で本当に申し訳ありませんが、このプロジェクトはこのリポートを書き終えた時点で一端終了させて頂くことにします。
協力してくれたみなさん、本当にありがとうございました。結局逆にご迷惑/ご心配をかけしてしまったこと、深くお詫び申し上げます。
実は去年の夏頃、自分がディレクションしている会社が無くなるかどうかの瀬戸際に居ました。それをなんとか真逃れると言う事が12月に決まり、少し余裕がもてる様になり、ようやく動くことが出来る様になりました。しかし、いざ動くとなっても、遠ざかってしまったため、状況もニーズもぼんやりとしか分からず、いつ、どこで、なにをするか決めかね、結局考えていても分からないので、前回春に出会った人々、向こうにいる友人、お世話になった人達に会いに行って、現地の状況を聞き見に行くことにしました。
遅くなりましたが、12月の被災地支援トリップ・レポートをよんで下さい。
12月17日
糸魚川を抜けて新潟から郡山そして仙台を目指しました。
大町はまだ雪がほとんどなかったけど、白馬、小谷に入ると2、30㌢の積雪がありました。糸魚川も小谷と変わらずにふっていて、日本海側はずっと雪がありました。ここ数年の傾向として、低い雲が山を越えられず海沿いの街に大量の雪を降らせています。今年もすでにその傾向は出ていることがその時すでに伺えました。
吹雪の中走り続け、新潟市から磐越道で東に向かいました。そこから山に向かってさらに雪が強くなったのと、すでに午前1時だったので、阿賀野川SA でその日は寝ました。
12月18日
天気は落ち着いていて、最初はかなりの雪道だったけど、東に進むほど雪は減り、途中からすっかりなくなりました。仙台市は信じられないくらいキレイになっていて、瓦礫は片付けられ、街にはイルミネーションの明かりがともり、人々はかなり落ち着いた様子でした。
仙台で車関係の仕事をしている友人も、被災車の最後の一台のピックアップが終わってやっと落ち着いた所で、一日つき合ってくれました。震災後に出来たという被災した漁港女川エリアの出張直売所(?)や、地元アーティストによる個展など、仙台市の今を見ながら、震災当時の話を色々聞きました。落ち着いたとはいえ、爪痕は色んな所に色んなカタチで残っていると感じました。だけどみんな本当に強く、負けずに前を向いていて、街全体に大きなパワーを感じました。
12月19日
朝起きて、4月に片づけのボランティアで行った石巻市に向かいました。
4月の時点で、実はボクは勝手にかなり途方に暮れました。
十人がかりで、一軒の家の裏庭掃除に丸二日がかかり、街全体がそれと同じような状態で、
これが全部片付くのはいつになるんだろう?と思いました。
しかし、それから数ヶ月がたった石巻市を見て、自分の弱さと人間の強さを見せつけられました。街は本当に見違えるほどキレイに片付いていました。町中にあった瓦礫は数カ所に山の様に集められ、多くの商店や会社なども営業を再開し、新しく開いたお店も並び、街は活気づいていました。市役所で聞いた所、避難所で生活していたほとんどの方も、仮設住宅や、賃貸住宅などに入ったとのことでした。また新しい環境、新しい顔、新しい生活に馴染むのは簡単なことじゃないとも思いますが、少しでも自分の時間を取り戻し、心休まる場所になっていることを心から願いました。
その日の明るいうちは4月に訪れた避難所の方が集まる公民館的な(児童館でもある)場所や、ボランティアをまとめたり3月から地元の人達と共に活動を続けるチーム神戸さんの事務所などに、長野からお土産として持っていったリンゴ10箱を届けました。(リンゴはリンゴ農家をやっている仲間から格安で譲ってもらったもので、この募金のお金で買わせて頂きました。)そしてその内の一箱はボクが今回どうしても会いたかった、4月に片づけを手伝わせて頂いた遠藤さんのお宅に届けることも出来ました。遠藤さん夫妻は避難所を出たあと、その事務所からほど近い比較的被害の少なかったアパートに移り住んでいました。自宅やそのご近所エリアは、あれからかなりきれいになったようですが、区画整備で住んではいけない場所になったと話してくれました。「せっかく片付けてもらったのにな。」と言っていましたが、同時に「片付いたおかげであの日からずっと前向きになった」と言ってくれて、ボクらも少しは役に立てたのかと思いました。
2時間ほど談笑した後、遠藤さん夫妻に別れを告げ、もう一度チーム神戸さんの事務所にいって、このプロジェクトで集めたお金を役に立たせる良い方法が無いか、代表の金田マスミさんに相談しました。
「もちろんお金の使い道はいくらでもある。」と、色々と例を挙げてくれて、その中からしっくりくるものを選んでほしいと言われました。
ボクは全国からこの地に(週に一回か二回)訪れる炊出し隊がご飯を出す時に集まる場所が、屋根も無く、雨等が降るとぐちゃぐちゃの泥の中で立ち食いの状態だと聞いて、炊き出し所の雨風を凌ぐ為のテント代、足場の床板代わりにパレットとコンパネ代、テーブル代として使ってもらうことにしました。
その後、色々な話を聞きながら軽い雑用を手伝ったあと、ご飯を頂いて帰路につきました。
あの日からすでに1年が経ち、日本はまだまだどうにもなっていない部分が沢山あります。自分の様に、やりたいことと、やらなくてはいけないことの狭間でどうにも動けなかった人も居ると思います。原発事故はまだまだ収束にはほど遠く、被災地が本当の意味で落ち着くのはまだまだ先です。しかし、訪れた二つの街は、そこに住む人々は、ものすごいパワーで力強く前へ向かっていました。すでに落ち着きをほぼ取り戻している被災地から遠い私たちにも、まだきっと出来ることはあるはずです。自分はまだまだですが、自分に出来ることをこれからも精一杯やっていきたいと思います。がんばります。みなさんもがんばって下さい。みんなでがんばりましょう。明るい未来を作りましょう。
最後に、このプロジェクト、Donate for change に賛同してくれたみなさん。本当にありがとうございました。そして言葉通りに動けなかったことを、深くお詫びいたします。申し訳ありませんでした。ご意見、お叱りは心から受け止めたいと思います。
ここから、自分としては個人的に活動を続けることと、謝罪することぐらいしか出来ませんが、何かあればご遠慮なくどこかであった時、または、このブログのコメント欄に書き込んで下さい。
文中に書いた通り、勝手ながらこのプロジェクトはここで一端終了とさせて頂きます。
みなさん本当に、どうもありがとうございました。
2012年3月11日
Donate for change 小松吾郎
スノーボーダーの小松吾郎です。
勝手ながら、このたび復興支援プロジェクト"Donate for change" を始めさせて頂く事になりました。
この災害を前に、私たち個人が1人で出来る事はほんのわずかですが、そのわずかが集まれば1つの力になると思います。そしてその(小さな)力もいま日本には必要だと感じます。少しでも元気を届けられればと思います。
"Donate for change" は、募金という形でお金を集めさせて頂き、被災地の方で必要とされる下着などを購入して届ける。というとてもシンプルなプロジェクトです。
配達は自分や仲間が被災地にボランティアに行くタイミングで行っていきます。届け先は、基本的に自分や友人スノーボーダー、スケーター、サーファー、アーティスト、ミュージシャンらの持つ横の繋がりがある場所を中心に数カ所を回る予定でいます。
自分は行政でも企業でもなにかの団体でもありません。「何か出来ないか。」と考え行動している1人の人間です。このブログなどを通して、出来る限り情報を開き透明性を持てるよう努めていきますが、ただ信頼して頂くしかない部分もあるかもしれません。
当たり前かもしれませんが、これは自分という人間を信用して頂けるという方、このプロジェクトに「賛同出来る。」と思って頂ける方に向けられています。
学びながらですが、必ず役に立てるようがんばります。
ご賛同頂ければご協力お願いします。
ありがとうございます。
Donate for change
小松吾郎